2010年07月22日

市民的社会活動を「体制側」はどう評価してきたか?


 昨日(7月21日)のブログで「ソーシャルビジネス」にからんで、さまざまな社会問題の解決に取り組みながら、それを独自のビジネスに構築していく試みが、今までのところ日本では、「小規模な形や収益性を犠牲にした形で進んできたところがあって、それはそれでそうなる理由があってのこと」だが、と書いたところ、そうなる理由について市長はどのように見ているか、とのお尋ねがあった。

 いろいろな見方があるだろうが、私なりの感想。

 ソーシャルビジネスを成り立たせる社会条件や人材の準備はもう十分に成熟していると思うが、政府の政策、さまざまな制度(税制や金融、法制度、企業システム、行財政などなど)、それにわれわれの意識が、それをまだ「補完的」なものとみなしているためだと思う。

 こういう種類の議論になるといつも思い出すのは、阪神淡路大震災の後に、自民党の加藤紘一さんが述懐したことだ。

 大略こういうことだった。

 大震災でボランティアの人々が大きな役割を果たしたが、それまで自分たち(加藤さんたち政権側のこと)は、ボランティア活動とか市民運動とかをどちらかというと「反体制側」の「要求運動・告発批判組織」と見る既成観念にとらわれてきたが、大震災を境にそれが違っていたとの理解が出てきた。

 と、いうのだ。

 これはとっても率直で、かつ柔軟な立場でこそ言いえたことだけれど、問題の核心をついた評価だったと思う。

 一方、伝統的な「反体制派」や「革新勢力」からすると、ボランティアとか市民活動とかは勝手気ままな「自己満足」にすぎず、結果として体制の補完物の役割を果たす、との理解が根強かっただろう。

 こうした両翼からの先入観を実体としても崩壊させたのが、あの大震災での出来事だった。

 以来、こうした市民的社会活動をどのように評価し、位置付けていくか、あらゆる立場の人にとって避けて通れぬ課題となったし、またその担い手自身にもより明確な自己評価をせまるようになったわけだ。

 ジグザグしつつも日本社会は少しずつその正当な認知を進めてきたとは思う。

 しかしまだ本当の意味ではその潜在的な力を解き放ってはいない。

 政策、制度、諸システム、人材養成などなどのところで、まだ「補完」「すき間」「予備」の位置づけを脱していないし、為政側にはなお「小うるさい異議申立人」と見る意識が色濃く残っているだろう。

 これを最後的に解消するには、いま少しの努力、もしくはエポックとなるべき出来事が必要とされるかもしれない。


昨日に続きクルマネタ。
往年の名車、ですね。





今日の「1日1エコ」


冷えません  つめすぎ注意  冷蔵庫  

Posted by 穂積亮次  at 13:55時事・社会